ファミリーコンピュータが発売された7月15日
今から36年前となる1983年(昭和58年)の7月15日に、任天堂から家庭用ビデオゲーム機として「ファミリーコンピュータ」が発売された。
もう36年も昔の話だというのだから、歳をとっておっさんになってしまったわけだ。
当時のメーカー希望小売価格は14,800円という子供にはちょいとお高いお値段であったが、徐々に人気をとなり1年間で300万台以上を販売した。
その頃には「ファミリーコンピュータ」という長い名称も簡略化され、「ファミコン」の愛称で大人から子供まで一大ムーブメントを巻き起こしたのだった。
そして4年ほどで1,000万台ダウンロードではなく、1,000台を販売したのだ。
最終的な出荷台数は日本で約1,935万台、全世界累計では約6,291万台という大記録商品となった。
当時は新しいソフトが販売される度に、「ファミコン」というゲームにのめり込んでいき、現実世界の人と接するという興味が薄れてしまうファミコン・シンドロームという心の病にかかる人達も多かったようだ。
一世を風靡した「ファミコン」ブームが終わると、任天堂は1989年(平成元年)に携帯用の「ファミコン」とも言える「ゲームボーイ」を発売し、1990年(平成2年)には「ファミコン」のアップグレード版とも言える「スーパーファミコン」を発売するのだった。
聞きたくないかもしれないが、ここからは私Bの子供の頃の心の闇甘酸っぱくて懐かしい記憶と共に、この「ファミコン」についてお話していきたいと思うので少々我慢してもらいたい。
家庭のテレビでカラーゲームが楽しめるという革命
とにかく画期的だったのが、家庭のテレビでカラーのゲームが楽しめるというものだった。
しかし、当時は今のような薄型の液晶テレビではなく、ブラウン管式なので体育座りをしたら大人が1人入れるくらいのめちゃくちゃ大きなレンジのような箱型のアナログテレビだった。
しかも、リモコンなんて洒落たものは存在しないので、チャンネルの切り替えは本体に付いている「ガチャガチャ」のレバーのような形状の回転式タイプのつまみをガリガリと回してチャンネルを合わせたものだ。
また、たまにつまみ部分がグラグラになり、外れてしまうというトラブルにも見舞われることもあったのだが、そんなものはご愛敬といった具合で笑い飛ばし、全く気にしていなかった記憶がある。
お話しがあまりにも懐かしいブラウン管式テレビの話題にそれていきそうなので元に戻すとしよう。
少し前までは、近所の駄菓子屋やゲームセンターまで足を運んで、設置されている「インベーダーゲーム(1プレイ50円くらいだったかな?記憶はあいまい)」を友達とみんなで順番にプレイしていたのだが、導入されたばかりの人気機種にもなると列に並んで順番待ちをしなければならず、長時間待ってもなかなかプレイできないという非常に歯がゆい思いをしていたが、大人になって冷静に考えると、当時は子供だし、お金もあまり持っていないのでその程度が懐事情的にも丁度よかったのかもしれない。
その他には、大きいタコの足を掻い潜って海底から船へお宝を運ぶ「オクトパス」、火災現場のビルから飛び降りる人達を担架で跳ね上げて救急車まで運ぶ「ファイア」、飛行機からパラシュートで降下してくる人達を船で受け止める「パラシュート」、などの携帯版ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」持っていたので家でプレイしていた。
そんなある日、お金持ちの友達I君から「ファミリーコンピュータって知ってる?俺買ったんだ!めちゃくちゃ楽しいから今度やりに来なよ!!」なんて話を聞いて、初めて「ファミリーコンピュータ」という家庭用ゲーム機の存在を知ったのだった。
そう、今思えば任天堂の「ゲーム&ウオッチ」シリーズが進化したのが、家庭用ビデオゲーム機「ファミリーコンピュータ」だったのである。
「ファミコン持ってない派」の密かな野望
その後、友達数人でさっそくI君の家に遊びに行くこことなった。
インターネットもない時代だったので、Bは「ファミリーコンピュータ」を見たことも無いければ、触ったこともないのだが、友人の1人は「ファミコン」のカセットが入ったケースを持参していたので「ファミコンのこと何にも話さなかったのに、密かに持ってたのか・・・」などと心の中で思っていながらI君の家へ向かった記憶がある。
そして、I君の家にお邪魔したB達は、I君のお母さんが持ってきてくれた冷えたカルピスを飲みながら、早速準備をして「ファミコン」を起動し始めた。
まず最初に入れたカセットは「ドンキーコング」で、プレイを始めたのは家主であるI君だった。
その瞬間、B達数名の「ファミコン持ってない派」は一気に心躍るようなゲームミュージックとプレイ画面に引き込まれると共に釘付けとなり、テレビのブラウン管を眺めたまま動くことは無かった。
そんな時でも「ファミコン持っている派」の数名はゲームのうんちくを言い合いながらはしゃいでいる。
そして、B達数名の「ファミコン持ってない派」は釘付けとなって静かに眺めている状況で、「こんな楽しいものが世の中にあったのか・・・絶対欲しいな!!俺も買おう!!」などと、それぞれが野望のように心に誓っていたことだろう。
そして、Bが生まれて初めて「ファミコン」という名のゲーム機に触れる時が来たのだった。
正直に心が躍った「ファミコン」デビュー日
Bの「ファミコン」デビューとなったあの日、初めてのコントローラー操作に戸惑いながらも、「ドンキーコング」をプレイした時の感動は今でもはっきりと覚えている。
ゲームをしているBは大真面目なのだが、初めての操作たっだので超が付くほど「マジか!?こいつ下手糞だな!」と思わてしまったと思う。
心が躍るとはこのことで、当初は「ファミコン」というものを知らなかった歯がゆさや持っていない悔しさなどもあったが、いつの間にかそんな邪念は捨てて、「ドンキーコング」にのめり込んでいったのだった。
その後、I君が持っているソフト「ワイルドガンマン」と「ダックハント」、友人が持ってきたソフト「マリオブラザーズ」と次々にプレイしていき、どのソフトも楽しかったのだが、「ファミコン」本体の端子にオプションの光線銃を取り付けてプレイする「ワイルドガンマン」はとっても斬新だったという思い出がある。
それは、光線銃ゲームをプレイする際、仮面ライダーの変身ベルト並みのホルスター付き極太ベルトを腰に巻いて、銃を出し入れしながらルール通りにプレイしているI君の自慢げな姿を1メートルほどの距離で眺めながら、子供ながらに「俺あの極太ベルト付けるの恥ずかしいな・・・」と思っていたし、プレイする時なんて正直「ファミコン」であっても、唯一、心が躍らなかったことをはっきりと覚えているのだった。
だから、自分の順番が来るとホルスター付きの極太変身ベルトを巻かないという世の中のガンマン界隈では考えられない斬新なプレイスタイルを「ファミコン」デビュー初日から真っ先に取り入れており、ガンマン精神に反した掟破りの偽ガンマンであると共にルール無用の不良ハンターであったと思う。
この光線銃シリーズは、「ファミコン」専用に任天堂より発売された光を用いた射撃玩具なのだが、I君の家でプレイした「ワイルドガンマン」や「ダックハント」以降はあまりお見かけする機会が少なくなっていったという記憶があるので、極太変身ベルトがあまり受け入れられず、世の中には掟破りの偽ガンマン達が増加していったため、人気が無くなったのかなと思っている。
しかし、光線銃ゲームの考案者はBが遊んでいた「ゲーム&ウオッチ」シリーズなどを手掛けた横井軍平氏だというのだから、大人になってから知ると「初日からルール無視してごめんなさい・・・」と申し訳ない気持ちになった。
こんな「ファミコン」デビュー初日を迎えた少年時代だったとさ。
めでたしめでたし・・・なのか?
横スクロールの革命児「スーパーマリオブラザーズ」
「ファミコン」の歴史を変えたとも言える革命児が、1985年(昭和60年)9月13日に任天堂が発売したファミリーコンピュータ用ゲームソフト「スーパーマリオブラザーズ」だ。
プレイ人数は1~ 2名で同時プレイは出来ないのだが、プレイ画面が右方向に横スクロールするタイプのアクションゲームだったので、「ファミコン」デビュー初日にプレイした画面スクロールが無い「マリオブラザーズ」とは比較できないほど高い完成度のゲームだった。
また、プレイした時のゲーム性・ミュージック・キャラクター性・裏技など、どれを取っても「これは今までのゲームと次元が違う!!」なんて衝撃を受けるほど面白かったという記憶しかない。
発売直後から、社会現象とも言えるほど日本中に「スーパーマリオブラザーズ」ブームが巻き起こり、「ファミコン」という家庭用テレビゲーム機の認知度を一気に頂点にまで高め、「ファミコン」の普及に最も貢献したソフトであると言われている。
ストーリーとしては、キノコ王国がクッパ率いるカメ一族に侵略されてしまい、キノコ王国のお姫様であるピーチが大魔王クッパにさらわれてしまったので、配管工(大工)の兄弟マリオとルイージがピーチを救出するため、敵を倒しながら陸海空と突き進み、クッパがいる大魔王の城へ向かうというものだ。
通称は「スーパーマリオ」「スーマリ」「マリオ」などと呼ばれ、サブキャラクターである「ルイージ」「ピーチ」「ピノキオ」「クッパ」「ノコノコ」などの個性あふれるキャラクター達も人気が高い。
現在も「スーパーマリオブラザーズ」はシリーズ化され、数多くの続編が出ており、日本を代表する世界的な超人気ゲームとなっている。
また、「マリオ」はシリーズ以外にも任天堂ゲームの顔としてスポーツなどの様々なジャンルのゲームへ進出し、2007年(平成19年)にはアメリカで「史上最も影響力があったゲーム100選」において堂々の1位に選出されている。
ロールプレイングの革命児「ドラゴンクエスト」
ロールプレイングゲームというものにはまったきっかけは、1986年(昭和61年)5月27日にエニックス(現: スクウェア・エニックス)から販売された「ドラゴンクエスト」、そう通称は「ドラクエ」だ。
家庭用ゲーム機では初となるオリジナルタイトルのロールプレイングゲームであり、発売当時は続編が企画されていたという訳でもなかったと思うのだが、その後も『ドラゴンクエストシリーズ』としてシリーズ化されているので「ドラゴンクエストⅠ」と言った方がピンと来るのではないだろうか。
正式タイトルは「ドラゴンクエストⅠ」ではなく、「ドラゴンクエスト」となっているが、続編となる「ドラゴンクエストⅡ」や「ドラゴンクエストⅢ」などが発売されていき、シリーズ第1作目である「ドラゴンクエスト」は「ドラゴンクエストⅠ」と呼ばれるようになった。
そして「今、新しい伝説が生まれようとしている」というキャッチコピーのとおり、現在も「ドラゴンクエスト」は続編が発売され、日本を代表する超人気ロールプレイングゲームとなったのだ。
ストーリーとしては、伝説の勇者「ロト」の血を引く勇者がプレイヤーとなり、竜王にさらわれた姫を救い出し、そして竜王を倒すことなのだが、そこに至るまでにま過酷な道のりがあるのだ。
最終的な目標となる竜王討伐には、立ち塞がる敵を倒して経験値とゴールドを稼ぎながらレベルを上げなければならない。
そして、貯まったゴールドで強力な武器・防具などを購入し、町の人々から得た情報から謎を解き明かしながら重要なアイテムを入手するか否かはプレイヤーの行動次第となる。
経験値を貯める育成型でもあり、広範囲のバーチャルな世界を冒険できるロールプレイングというのが爆発的に大ヒットしたため、発売当時は瞬く間にどの販売店も品切れ状態となってしまい、前から予約しているのに未だに購入できないという人が出るほどの伝説的な名作となった。
伝説の勇者「ロト」が使用したという「ロトの剣」「ロトの鎧」や、「ドラゴンクエストⅠ」や「ドラゴンクエストⅡ」で入力できる笑える「復活の呪文」の裏技なども非常に懐かしいことろである。
皆さんはこんな経験ありませんか?
皆さんの中にもBと同じことをしている方は多いのではないだろうか?
「ファミコン」電源を入れても画面が映らないとOFF後にカセット外して・・・
「ふ~ぅ!ふ~ぅ!ふ~ぅ!ふっふ~~ぅ!」って吹いてませんか~!!
テープ式カメラ、SDカード、フラッシュメモリーなどの不具合でも未だに「ふ~ふ~」やってしまうBなんです。
「ファミコン」からの癖なんだろうな・・・。
以上、Bの子供の頃の心の闇甘酸っぱくて懐かしい記憶でした。